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空、舞う。

悠々自適に空を舞え。個人的なことぺちゃくちゃしゃべるブログです。あくまで個人の感想です。

『守り人』シリーズを読む

何を今更、と思われる方もいるでしょうか。
かの有名な上橋菜穂子さんによる『守り人シリーズ』を今回紹介させていただきます。
かの作品はいわゆるファンタジー作品というものです。

ファンタジーとは非常に「人間表現」的な作品だとお思うのです。

例えば、それには「現実には存在しない世界を読者に克明に伝えていかなければならない」という点がそれに大きく関わると思うのです。
「学校の教室」と聞いて、皆さんはどんな場所を思い起こすでしょうか。
綺麗に整頓されたいくつもの机でしょうか。黒板でしょうか。あるいは、授業真剣に聞く生徒、静かにしなさいと注意を促す先生。
先生はどんな先生でしょう。男の先生? 女の先生? 怖い先生、優しそうな先生。

ちょっと待ってください。

「学校の教室」に机があると誰が言いましたか? 黒板が、生徒が、先生がある、もしくはいると誰が言ったでしょう。
「学校」とは勉強する場所であり、勉強をするためには「机」があり、「生徒」というのは授業を真剣に聞いて(あるいは聞かなくて)、「先生」は注意をする。
「学校」という言葉があれば、私たちはある程度共通の世界観を共有できます。
もちろんそれは私たちで全く同一の世界観ではなく、読む人によっては全く別の学校を想起すると思います。
裏山があってたまに児童、あるいは生徒が放課後に遊びに行く学校、街の中で車がビュンビュン道路を走っていて不注意な生徒が道路を飛び出してあわやという目にあい、親から怒られることもある学校。
その自由な世界観が読者の楽しみであり、小説の真髄だと私も思います。

さて、皆さんに質問します。
「シグ・サルア」と聞いて、何を思い浮かべますか? あるいは「チャグム」。
どちらも私たちには耳馴染みのない言葉です。でないなら、実は一方が人名で、もう一方が花の名前と誰が気づくでしょうか。
どちらが花の名前か。それは、シグ・サルアです。
どんな花でしょうか。
一文を引用させていただくなら

小さな花の見かけからは想像がつかないほど、たっぷりとした蜜が、喉を伝って落ちていった。
精霊の守り人 (新潮文庫)より引用
この文から私が思い浮かべるなら、ホトケノザでしょうか。小学生の時、おそらく一度はみなさんも口に含んだことがあるだろう、あれです。
想像以上に甘く、内心驚いたのを思い出します。
ということは、シグ・サルアはホトケノザだろうか?
ホトケノザはピンク色の花ですよね。
私は、シグ・サルアは白い花だと思いました。
可憐で弱々しく、儚げな白い小さな花。
単語だけではわからず、本を読んだ時、初めてそれがどんなものかわかる。
私はこれは、単語だけでは縛られない、鳥のように自由な想像力を私たちに与えてくれるファンタジー独特の能力だと思います。

こんな不思議で未知に溢れた世界の住民たちはどんな人々なのでしょうか。
不思議なことに、描かれた人間は決して私たちと全く異なった人間ではないのです。

考え方は違うのか。
えぇ。考え方は違います。

容姿は違うのか。
もちろん。個性的なキャラクターがいっぱい登場します。

社会のルールも、価値観も、食べるものに至るまで異なります。

しかし、決して全く異なった人間ではないのです。
それはある種、他のすべてを異なったものとすることによって初めて浮き彫りにされた、文字通り「浮き彫り」にされた人間本来の姿が見えてくるからではないでしょうか。

私が、初めの方で「人間表現的」という言葉を使ったのはそれが由来です。
あまりに人間的な異世界の人間たちを描くことがファンタジーの真骨頂であり、それを楽しむことがファンタジーの極みだと思うのは私だけではないはず。

恩田陸さんは解説の方で次のように書いていらっしゃいます。

C.S.ルイストールキンがどちらも文学や言語学の学者だったというのは決して偶然ではない。彼らは、世界の秩序を俯瞰したい、理解したい、自分なりの言葉で解明したいという動機があったからこそ、後世に読み継がれる傑作を残せたのではないだろうか。
精霊の守り人 (新潮文庫)解説より引用
文学は実学だ、という高校の現代文学の先生の初めの授業を思い出しました。

私たちはこの作品から何を学べるのだろうか。
そんなことは考えなくていいのです。
ただ、ありのままの「人間」、赤裸々な「人間」を見て、自分の「人間らしさ」を見つめ直すのも、1つの「ファンタジー」の楽しみだと思います。

精霊の守り人 (新潮文庫)

精霊の守り人 (新潮文庫)